歴史

HDC アトラスクリニックの歴史

 

鈴木吉彦(HDCアトラスクリニック、日本医科大学客員教授)

 

公益法人として疾病の早期発見・早期治療を目的に、地域や職場における健康診断を実施する等、広く予防医学対策を推進してきました旧保健同人事業団付属診療所が、2008年に開始された公益法人制度改革に伴い、財団法人としての趣旨を継続できず、組織の転換を迫られ、閉院致しました。

しかし、これまでの事業・受診者様のご不安な思いやご迷惑をおかけすることを考え、職域健診は元より、旧保健同人事業団付属診療所で実施してきました人間ドック・一般外来の診療事業を、当時所長を務めておりました鈴木吉彦医師(現HDCアトラスクリニック院長)が継承することに至り、2010年4月1日にHDCアトラスクリニックが設立致しました。

 

 

 

 

元クリニック、前身、日本で最初の人間ドック発祥施設

 

当院は、以下のように、日本で最初に、「人間ドック」システムを、クリニックとして最初に始めた医療施設として、昭和29年より、長い歴史の上での医療を行っております。ぜひ、ご参考にされてください。

 

人間ドックの創設 ー予防医学に風穴をあけるー

私たちが成人病克服のため「人間ドック」という新しい医療システムを開発したのは、昭和二十九年のことでした。
医療というものが、お医者さんだけの手でうまくいくものではなく、患者とのアベックゲームでこそ、うまく実るものだという一番いい立証がこの人間ドックでありましょう。
今でこそ、人間ドックは普通名詞になり、百科事典にものっていますが、当時、あるいは今日でも、いまの人間ドックの五十何種類の検査をしてもらおうと思ったら、何週間かかったかしれません。大学病院あたりだったら一か月も、一か月半も必要だったでしょう。それは検診してくれる病院のシステムが、教授または医長本位のタテ割り式で、一つの検査ごとに、その教授または医長の傘下の検査室で検査が行なわれ、次の教授または医長のところにまわしてもらうには、また手続きのやり直しが必要だったからです。当時は、すべての臨床病理検査が各科でバラバラになっていて、今日のように中央検査室に統一されてはいなかったためです。

ドック試運転
ここで私(保健同人創立者・大渡順二)は楽しい因縁話になるのですが、当時、国立東京第一病院(院長・坂口康蔵さん *現在の国立国際医療センター)の下にお医者の守屋博君がいました。守屋君は、私と同じく岡山の生まれで、師範学校の幼稚園、県立岡山中学で同窓の仲。それに私が保健同人の仕事をはじめて、お医者の世界に出入りしはじめたころ、彼は逓信病院の外科医から逓信省の保健課長に転じ、その後、日本で最初の病院管理学の指導者になっていて、奇しくも同じ畑の話で友情を復活していました。東一病院構内の厚生省病院管理研修所の主事も兼ねていましたっけ。
議論好きの私と、同じく議論好きの彼との間に、病院問題で話の花が咲いたのは当然ですが、その結実が人間ドックの創設でした。
「そこのけ、そこのけ、お馬が通る」といいますが、「そこのけ、そこのけ、患者が通る」といい直したらどうなるか。患者がベルトコンベアにのって通れば、各科のお医者が次から次へと検診してくれる――その検査は中央検査室にまわして、コンベアの最後では、総合的な主治医が待っていて、しらべた材料で総合判定してくれる――これを六日間の日程にわりふろうじゃないか。
このアイディアで、まずその一年前に東一病院の内科医長小山善之さんの好意ある計らいで、私は一人で同病院に入院して、数日間の精密検査をしてもらいました。引きつづき、今度は受診者を三人にふやして、細川隆元さん、東山魁夷さん、恒川真さんにモルモット役を引きうけてもらい、三人一緒に検査をうけたら、病院の中の診療の手順はどんなふうになるか、これをしらべるために、実験台にのぼってもらいました。昭和二十九年二月のことでした。
細川さんは、私の東京朝日新聞記者時代の政治部長でその後、政治評論家。東山さんは日展の特選日本画家として売り出されたころで、保健同人の創刊いらい五年間、表紙絵を描きつづけてくださった方です。恒川さんは細川さんと同じく朝日の私の先輩、ロイター通信の幹部記者でした。そのときのドック判定者は内科医長小山善之さんでした。
健康者のドック入り検査に熱心な坂口院長、それに守屋君と小山医長に特別にひと肌ぬいでもらったおかげで、恒川、細川、東山の三氏がそろってドック入りできたのでしたが、忙しい三氏に、同じ日取りで四日間の入院を約束するのも一苦労でした。いざ当日近くになると、今度はあの何百ベッドもある大病院の中で、三つのベッドを同じ日から同じ日数だけそろえて確保するということは大変なことであるということがわかって、小山医長は汗をかいたようでした。何でも実際にやってみなければわからないものです。
さて、三氏の成績はどうであったか。
主治医の小山内科医長が、雑誌『これから』(保健同人社刊、二十九年四月号)に寄せた報告から引用してみましょう

三氏に対する所見
恒川真氏(五十六歳)
恒川氏は酒も煙草もたしなまぬ人で、肝臓の機能、含水炭素の消化機能いずれも正常で、便・尿も異状なし。
「胃液検査」刺激が強ければ酸が出る状態の無酸症を示す。「レントゲン検査」胃・肺ともに異状がない。
「心電図」で心臓の右にやや肥大を認める。
血圧は正常。血液――梅毒性反応陰性。貧血なし。癌の反応もすべて陰性。
結局、胃液の塩酸の分泌がすこし悪いだけで、他にも心配すべき病気はまず無い。
本人の養生としては、食餌をよく噛んで喰べ、偏食を避けること。食事時間を規則正しくすること。また胃液の酸が不足のときは、手当として塩酸とペプシンを混ぜた人工胃液を食事直前に与えて、胃の働きをたすける。これをしばらく連用すれば回復すると思う。またそこまで必ずしもしなくとも、心身の過労に気をくばれば胃液は出ると思われる。

細川隆元氏(五十四歳)
細川氏は、十四年前に虫様突起炎〔虫垂炎〕の手術を受けている。嗜好品は酒だけ。遺伝関係として脳溢血がある。自覚症状の訴えとしては、尿量がすこし多くなったのを心配しドック入りされた。
遺伝関係として脳溢血があるが、本人の血圧は正常。細川氏じしん「前立腺肥大」の有無を懸念されるので、泌尿器科でしらべたが、異状はなかった。
ただ尿にウロビリン体が出ている。それは肝臓の働きと関係があるのでしらべてみると、肝臓の色素の排泄機能がすこし悪い(パトサルフアレン試験では三十分で十五パーセント残っている)。
血液――高田反応は陰性。血清の蛋白量、残余窒素も正常値であった。糖尿病の方では、含水炭素の同化試験も正常。便も異状なし。
胃液の酸度がすこし高かった。なお耳鼻科の検査もしたが、これも異状なし。眼科は、近視が発見されたが、眼鏡で矯正できる。眼底には異状なし。また肺・食道・胃腸いずれも異状なし。
結局、細川氏には、かるい肝臓の障害があるから、大酒、偏食はことに慎しまねばいけない。酒をのんでご馳走を食べ、ご飯をぬくようなマネをしないように、かならず含水炭素である主食を摂り、さらに新鮮なフルーツ・野菜を欠かさぬこと。油っ濃いものさえ控え目にすれば、肉や魚はじゅうぶん摂ったほうがよいと考える。

東山魁夷氏(四十五歳)
東山氏は、遺伝関係では特別なことは、結核に罹りやすい体質の憂えがある。「既往症」としては、丹毒、黄疸、それにヘルニアで手術を受けたことがある。嗜好品は、酒をときどき少し飲む程度、煙草は喫まない。自覚症状はないが、更年期すぎの不安から、ドック入りされた。
心・肺とも異状なし。血沈は正常。便に潜血反応が出ているが、これは食餌の不注意からで(検査前にほんとの潜血食を摂らなかった)、再検査する予定。
糖の同化試験も正常。尿も異状なし。胃液は過酸症。肝臓の働き正常。「胃のレントゲン検査」――胃の緊張がやや高いが、他にまったく異状なし。癌の反応も陰性。眼も異状がない。

――とまあ、こういう結果でした。
四日間はけっこう暇で困るだろうというので、恒川さんは本を数冊持ちこんだそうですが、帰る日に「とうとう落ち着いて読む暇がありませんでした」と笑っていました。その恒川さんは胃の加減が悪かったので、ずいぶん慎重に、コーヒーなんかも飲まないぐらい養生していたのだが、ドック入りの結果はアベコベで、胃液過少だから逆にもっと、コーヒーその他刺激的なものをお摂りなさいといわれたのは収穫でした。しろうと養生の馬鹿さ加減に、お互い笑ったことでした。
細川さんは、長年の激しい仕事の過労と酒で、「どんな診断が下されても文句のいいようはない」といった殊勝らしさでしたが、肝臓がいささかくたびれているから、お酒を少し控えめになさいといわれて、逆に自信をかためたらしい。少し控えめにしたお酒の味こそ、「人生はこれから」といった本当の味かもしれない。少ないお酒が、ますます旨くなるにちがいない。
東山さんは何一つ異状を認めず、同氏の童顔と同じように、身体の五臓六腑も童子のごとくであるらしい。東山さんの清純な画風もこういうところからきているのかもしれません。ご自分は素裸のドック入りをし、傍らに人生最後の戦いを闘っている何百のベッドを眺めて、東山さんはその四日間を、深刻な、ある感懐にふけったそうです。「これも私の貴重な収穫でした」と眉宇に真剣なものをうかがわせながら語ってくださったことでした。
三人三様の貴重な収穫でありました。
三氏のお世話をしてみて驚いたのは、その費用の安いことでした。「いくら用意したら?」「まあ七、八千円用意しておいてください」と私はいい加減の見当をいっておいたのだが、お勘定をみると、当時の医療費で僅かに四千円そこそこでしかありませんでした。
私たちがお世話した手前味噌をいうのではないけれど、私たちの及ばぬながらの手引と、病院当事者の特別の努力が一緒に加わってはじめて、このドック入りがこんなにも円滑に運んだんだということは事実でした。これを裏返せば、そこに日本の医療制度と病院管理学の未熟さがあると思いました。
三氏のドック入りの予想外の好結果を得て、私はつくづく思ったことでした。東山さんでもいい、恒川さん、細川さんでもいい、仮にこのうち誰かが未知の患者として病院の門をくぐったとしよう。まず、受付の窓口で行列にならぶ。診察の順番を待たされる。内科だけで半日が終わる。X線室は「また明日いらっしゃい」といわれる。これは患者が医師を訪ねて歩く形である。これでは私たち忙しい身体の社会人は病院がいやになる。これは反対に、医師が患者のほうに歩いて行かねばいけない。寸暇を割いてベッドに横たわったドック入り患者に向かって、医師とすべての検査機能が、集中的に働きかけねばいけない。X線室や心電図室に運ばれるときは、電話で順番と時刻を打ち合わせておいて、待たないで検査が受けられねばいけない。そのためには医師の頭脳のとおりに、看護婦や検査手が病院機能の交通整理に協力して、ちょうどあのサイレン自動車のように万事が運ばれなければいけない。看護婦がひどい手不足のようだからそんなことも一朝には望めそうもないが、それにしても、これだけ近代化された国立東一病院だ。もうひと息、婦長級のベテランの看護婦が、こういう忙しい患者に附き添って、病院内の交通整理を引き受けてくれるようにできないものか。
私たちは、あっちこっちで待たされるのがたまらないのだ。待合室のソファで待っているところへ、医師、検査手、看護婦のほうからやってきて検査をやってもらえないものか。これは決して横着の謂ではない。私はなんとかして、私たちの手でできる範囲で、なんらかの形で、こうしたささやかなモデルを試みてみたいものだと思ったことでした。
ドック入りのお世話をしたそのちょうど前日に、はからずも私自身が急に脇腹の激痛を起こし、自動車で転げるように国立東一病院に入院し、急性膵臓炎の診断で、四日間ばかりは絶食で水も飲ませてもらえず、リンゲル注射で水分の補給を受けました。十二日間ほどで退院しましたが、まったく不覚の沙汰でした。私の初めてのドック入りは四年前で、当時坂口院長から「五年目にはまた来なさい」といわれましたが、ひとのお世話をするどころじゃない、なるほど、私自身にも神様がドック入りを命じ給うたのかもしれない。そう思ったことでした。

「短期間入院特別健康精査質」!?
このテストドックの経験を基礎に、守屋君や小山医長は、坂口院長に人間ドック開設を強く進言しました。
だが医局の内部では、だいぶ抵抗があったようで、なかなか進捗しませんでした。それは、病院の中のタテ割りが中央集権的に競合するからで、これはその後、全国の病院が追いかけてドックをはじめるとき、みんな同じ経験をしたようです。しかし最後に、坂口院長の強い「断」の一字で事はきまりました。
坂口院長にはかつて、民政党の俵孫一さん、桜内幸雄さんについて政局変動にそなえて、個人的に全身の健康診断をしてあげた経験をもっていられたことが、この決断の背景にあったようにききました。
最近の医局は院長や先輩のいうことになかなか耳をかしませんが、当時はまだまだ院長の指導性が強く、ことに坂口さんのあの温厚な人柄と徳は、だまって人を化するものがありました。坂口さんは私にも胸をひろげて抱いてくださり、若い私たちの前向きの姿勢にも理解と好意をよせてくださっていました。
しかし、六日間一室に二人ないし三人の受診者ベッドを置いて、これを毎週空床にすることなく維持することは、役所の仕事としては不可能なことでした。必ず、その直前になって破約があり、その補てんができないからです。それと同時に、当時の看護婦定員ではドックに専任をまわすことができない事情もあったりして、結局、言い出しっぺの保健同人がドックの経営維持を全面的に担当し、検診作業は東一病院にお願いする形をとることになりました。
専任看護婦は坂入トクさんという優秀な看護婦で、お医者の片腕になり、またドックのいろいろな解説、指導などで受診者に喜ばれたものでした。この坂入さんに呼応した保健同人の生え抜きの女子社員伊東初君が受診者の受付、登録を責任担当し、キャンセルのあった場合には、日曜日も返上して、補充のため電話や電報に明け暮れしていました。これは官僚的な国立病院ではできない芸当でした。また病院の殺風景なベッドだけでは味気ないので、保健同人の手で、簡単ながら、籐椅子の応接セットも買って、すこしはホテル風にくつろいでもらいました。
また、循環器の専門家、鴫谷亮一さんには、高血圧主任として、ドック運営に、陰になり日なたになりお世話になったものでした。
ドックの部屋は旧館三階の特別室で、入り口に「短期間入院特別健康精査室」という、長ったらしい文字がひっそりとはり紙してありました。ずいぶんむつかしい言葉をつかうものだといぶかったものですが、ドックという言葉はまだ公認されておらず、さらに、ドックという作業も医療法の上では私生児みたいに扱われて、正式に承認されていなかった。つまり、健康者を入れて検査するのだから、これを一般の患者というわけにいかず、病院だけでなく、厚生省自身が取扱いに困っていたのが実情でした。
ところで、「人間ドック」という言葉は、当時まだいわれていませんでした。
この「人間ドック」というアイディアを大大的に宣伝するきっかけをつくってくれたのは、読売新聞論説委員だった古田徳次郎さんの好意で、一か月ぐらいしたある日、読売の全段通しの大きな特集で、私たちの仕事を紹介してくれました。そのとき、執筆記者の竹崎羊之助さんが大胆に「人間ドック」という端的な呼称を与えてくれました。人間ドックという呼称をもらって、私たちは、はたと膝を打って喜びましたが、それがそのまま日本中に定着してしまいました。実に端的に本質を言い表わして妙。古田、竹崎両氏の名誉のために、当事者であった私は、ここにこれを記録しておきたいと思います。外国的な翻訳では、Personal medical check-up といっていますが、人間ドックのほうがはるかにズバリです。
人間ドックをすぐ追いかけたのは、聖路加病院(橋本寛敏院長)、昭和医大病院(上條秀介院長)、東京女子医大病院(吉岡正明院長―吉岡弥生さんの令息)の三者でした。聖路加では、厚生省に遠慮しないで部屋の入口にキチンと「ドック」の名を記していました。聖路加病院では、主治医の責任者は内科医長の日野原重明さん、事務的なことでは院長補佐の滝野賢一医長にいろいろお骨折りを願いました。ただ、聖路加は入院料、検査料が国立の東一病院に比べて相当高くつくのが気がかりでしたが、看護や食事の面では、昔からの定評のあるところ。病院のホテル化は、よく行き届いていました。
こうして四つの病院がクツワをならべてドックをはじめたわけですが、いずれも受診者の受け入れ、登録、補充などの現場の世話は、すべて保健同人が一手に受託し、わが社の伊東初君はその中心軸になって、忙しいながらも、開拓者的役割を楽しんでくれているようでした。事実、開拓者でした。昭和医大では武者たも子さんが専任で活躍してくれました。当時の各病院の専任看護婦の諸姉たちは、のちのちまでもお茶菓子を買って、定期的に仲のいい集いをもっていました。ドックはそういう看護婦さんたちの団欒の中からも育成されてきました。
この四つの先駆的な病院のあと、続く病院がパッタリとなくなり、どうしたことかと思っていると、二、三年後に一斉に全国的にドック病院が開花し、それからは燎原の火のごとく普及する一方で、今日の盛況をみるにいたりました。
その二、三年間パッタリ途絶えたのは何だったのでしょうか? 四つの先駆的病院は別として、一般に、この人間ドックをはじめるためには、今までのタテ割りの、伝統的な病院組織を改めて、中央に臨床病理検査室を置き、各科の横の連絡もやり直して、病院自体を近代的な中央集権化する必要があったからです。そのためには、群雄割拠している各科の医局の意識が邪魔になって、なかなか洗脳されない。一つには院長ないし首脳部の指導力の不足もあったようです。
言ってみれば、人間ドックを実行するためには、大袈裟なようですが、病院管理の近代化が必要だったからです。その内部的苦悶に二、三年かかったのだが、さすがにこれを実現しなければその病院は近代的病院といえなくなったのでしょう。苦悶の二、三年後に、客観的条件が熟したというのでしょうか。申し合わせたように、一斉に開花しました。それは、まことに美事な開花でした。
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この人間ドックは、創設いらい、終始、厚生省から白眼視され、認知されませんでした。それは、病院の中の一室を使い、採血、注射その他相当濃厚な医学的手段を駆使はするが、治療とはいえない。また予防とはいえない。だから、ドックに入渠する人たちも「受診者」ではあるが、「患者」ではない。国立東一病院が、室の入口に、「短期間入院特別健康精査室」といかにも無表情の文字をならべたのも、厚生省への遠慮からと思いました。厚生省には少なからず戸惑いを与えたようです。
しかし私たちは、現実に殺到する受診希望者の波に、絶対の確信を与えられていました。初年度から、待機者リストが一年分を越え、お断りするのに苦労していたからです。
確かに私たちは、医学の世界に、新しいジャンル(種目)を加えたようです。
後年、聖路加病院の橋本院長が渡米したとき、日本ではこういうメディカルチェックアップをやっているということを披露したら、米国の病院関係者が、驚嘆と拍手をおくってくれ、橋本さんは鼻を高くして帰ってこられたということでした。(この米国の驚きが、そのまま米国の土壌に結実し、十年くらい前でしたか、カイザー財団の手で一日に百人も受診できる、高度に機械化された人間ドックが生まれ、やがてそれが日本に逆上陸し、東芝病院、PL病院などではじめたことはご承知のとおりです。)
しかし、日本の厚生省の名誉のために書き添えておきますが、それから何年かたって、厚生省は国立東一病院その他に人間ドックの仕事を公認し、はじめて正規の予算を与え、ベッド数も増加しました。私たちは、その予算が内定した夜、それこそ花火こそはあげませんでしたが、私たち内輪だけでこじんまりと祝杯をあげました。病院との間に交していたドックの委任と受託の契約を解消し、当局に返上しました。大政奉還です。これは私ども下積みの連中にとっては、感無量の一瞬でした。政府をしてついに、認知せざるを得なくした一瞬だったからです。

しろうとだからご褒美ー日本病院協会賞受賞ー
人間ドックをめぐって、もう一つ感激だったのは、昭和三十五年、日本病院協会が私たちのドック開設の努力に対し、病院協会賞をくださったことです。
私たちが人間ドックを創設し、ここまで持ってきたことは、その後、いかなる人間ドック関係の医学書にも、一行も紹介されることなく、それは今日にも及んでいますが、そのなかにあって、病院協会が特に私たちをとりたてて表彰してくださったことは感激でした。
忘れもしません。病院協会十周年記念総会の一、二か月前でしたか。神田の如水会館の酒場で、親友高橋三郎君が紹介者になって、聖路加病院の橋本院長の懐刀だった平賀稔皮膚科医長と杯をかわしたことがありましたが、私が酔余の戯れに「人間ドックをつくったことでご褒美の一つはくださいよ」としゃべったことがありました。
これはまったく私の戯れ言にすぎなかった心算でしたが、平賀さんは大きく合点し、すぐ橋本院長(同院長が病院協会長でした)にお話ししたら、橋本院長が即座に快諾され、協会の内もトントン拍子に話がきまって、旬日ならずして、表彰の内報をいただきました。
表彰の日、保健同人を代表して、壇上で橋本会長から表彰状と記念品の置時計、それと固い握手をいただいたときは、ほんとに嬉しかった。胸の奥につかえるものがすーっとおりた。今もなおその記念品を眺めるとき、保健同人は確かに病院の歴史の一コマを回したんだと、ひそかなる喜びを新たにします。
その表彰の内報をもらったとき、私は「守屋博君は?」と尋ねましたが、「お医者が日進月歩で、いい仕事をするのはお医者の責務だ。きみ、それは、お巡りさんが泥棒をつかまえるのと同じだよ」という答えでした。なるほど、そういえばそういう理屈も立つ。「しろうとのお前だから表彰するのだ」ということだったようです。医者は医者同士では厳しいもののようです。これはそのまま、私から守屋君に伝えました。
事実、この人間ドックの創設は、守屋君の強い創意的主導がなかったら陽の目を見ることはなかったでしょう。また、私との幼稚園時代からの人生的奇縁、ならびに二人の間に創意の火花が散らなかったら具体化されなかったでしょう。守屋君の病院管理学と私の患者学がキスしたようなものです。それにドックの最終判定医としての小山内科医長の部内とりまとめの苦労、坂口院長の強い決断など、想い起こされます。
同時に、私の戯れ言を戯れ言として聞きすてないで、医界の大真面目なテーマとしてとり上げてくださった橋本寛敏会長、それから平賀稔医長たちの近代性やら進歩性を、今でもくり返し噛みしめます。それは、医界には、しろうとが嘴を入れることに本能的な拒否反応があり、これを評価することに体質的な嫌悪感があるからです。一般に、日本人という民族には、特別に「場」の意識が強く、同業組合的なセンスが濃いこと、職場のワク組みの意識が支配的であることは、最近の文化人類学が教えるところで、医師から見れば患者や非医師群はまったくの「よそ者」として扱われます。だから日本医師会長の椅子にあった某々が、私たちの医療制度批判に対し、実も蓋もなく、「しろうと黙れ」といった、有名な放言をあえてするのもここからきているようです。それだけに、病院協会が「しろうと」の私たちに対し感謝の握手をさしのべ、「有難う」の一言が出たことは、私たちに心のスモッグを奇麗に吹きとばし、底抜けの青空を見る喜びを感ぜしめるものでありました。
この人間ドック創設をめぐる医師と患者の共同作業は、そのまま、「よき医療制度は医師だけの手ではできず、よき医師とよき患者(国民)の共感と協力が必要」という私たちの年来の主張にもつながるものです。
人間ドックの歴史的意義については、私は、「守屋君は父親、私たち保健同人は母親の役割」を持ったのだと反省しています。

引用
大渡順二著「病めるも屈せず」(昭和56年7月刊)より

 

 

 

 

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